前エントリーでは、入塾面談の際に尋ねられた疑問にお答えするような形で、進学塾Uineの「補習」についての考えを記した。補習に対する基本理念、生徒と塾のポジティブな営みとしての「補習」について述べたものとして、最も大切にしている考え方であることはもちろん間違いない。
ただ、「補習」には、ダークサイドとまでは言わないまでも、言わば日の当たる陽の側面(前エントリーの内容)だけでなく、その裏側にある陰の性格も併せもつこともあるのではないか。ここではそうした補習のもつ裏側の性格、またその「効用」について考えを記してみたい。
前エントリーの最後で少し触れたが、補習には「罰則」的な性格がある。正規の時間で終わらないから補習になるわけで、「終わらないからまだやるよ」という指示は、生徒達にとっては罰則のニュアンスが大きい。これはネーミングを工夫しても変わらない、生徒達にとっての「余剰負荷」だ。
子供たち(小中学生)は、誰もが勉強に積極的であるわけでない。「もっと勉強やりたい」「志望校に合格するために猛勉強する」なんて生徒は一握りで、大抵の生徒は「できるだけ省エネで成績を伸ばしたい」から「親に言われて塾に来ているから、できるだけ努力したくない」まで、概ね頑張ることにそこまで積極的ではない。進学塾Uineのような真面目スタイルの塾に入塾してくる生徒でも、そういう傾向が見て取れる(地域性も大きいかもしれないが)。
本当に子供たちは易きに流れやすい。例えば、集団指導塾の講師なら一度は経験したことがあるだろう、「雑談を引き延ばそうとする生徒」。授業中、余談、雑談をすると、ちょっとノリのいい生徒(たいてい男子)が時計をチラチラ見ながらこっちの話に合いの手を入れたり、次を促したりしてくる。要するに、授業を中断させて、勉強量を減らしたいわけだ。若い先生だと中々この点がコントロールできずに、まんまとやられてしまうこともある。
また、前エントリーでも触れた「講師が教えてしまう」が習い性になると、生徒は壁にぶつかったり自分の苦手な単元の勉強だと、先生の解説を待つようになる。また時に、やっているふりをして、解説が始まるタイミングや先生が教えてくれるのを待っていたりもする。宿題も同様で、「分かりませんでした」が通用する指導者/塾だと分かると、やってこないで「分からなかった」を繰り返す。
「補習」の裏面の効用とは、補習のもつ「罰則ニュアンス」が、性悪説からみた子供の悪癖、すなわち「できるだけ楽をしたがる」を抑止的に矯正していくところにあるのではないか。しちめんどくさい言い方をしている(←いつも)が、要するに、「補習という罰則/めんどくさい作業を言いつけられないために、頑張ろう/真面目に取り組もう」という動きを引き出し、徐々に主体的に取り組む姿に導こうというものだ。
雑談を引き延ばすようなことをすれば(私は十分オッサンなので、色んな意味で雑談を引き延ばされるようなことはもうないけど笑)、宿題が増える。宿題はやっていかないと「補習」。ヒントや指針は教えてもらえるが、すべて教えてもらえるのを待っていて、時間内に終わらなければ「補習」。補習に来てもあまり進まなければ、また「補習」。こういう「ルール化」によって、補習の陰の側面が力を発揮する。-「ちゃんとやらなきゃ!」「頑張らなくちゃ!」。
勉強に関して、手抜きや妥協はできない。勉強には正面から向き合って、地道に、真面目に取り組まなければならない。そうした意識の涵養として、補習の罰則的なあり方もまた、なにがしかの力をもつのではないか。
もちろん、中々進まない生徒を補習、補習で締めつけるようなことはしない。小中学生は発達途上という前提があるわけだから、そこを十分加味して指導に緩急をつけることも必要だ。頑張りと反対のベクトルに向かう「怠け」や「緩さ」を、その芽がまだ大きく育ってしまわないうちに正していく。そういう陰のはたらきとしての「補習」の扱いなのだから、乱発すればいわば勉強が陰に覆われてしまい、希望も喜びもない苦痛に変質してしまう。
補習に来て勉強と、自分の弱点と格闘した生徒には必ずねぎらいの言葉をかける。「よくがんばった!」「1つ壁を越えたね!」-大人も子供も、明日への活力はまずあたたかい言葉がけからだ。補習の陰の要素も利用しているからこそ、正の、プラスの言葉で補習を締めくくりたいとも思っている。