「合格」は誰のもの?

入試の結果がほぼ出揃った。SNSでも「合格」の2文字が躍り、昂揚感がPCやスマホの画面からも伝わってくる。「合格」の与えてくれる満ち足りた気持ちは、何とも形容しがたい。十全の肯定感と、戴冠して玉座に座るかのような、この世のすべての満足を手にしたかのような感覚に満ち満ちている。指導する我々においても、その何分の一かの「おこぼれ」に与って、幸せな気持ちになることができる。

だから私は合格体験記を読むことが好きだ。他の塾のHPやブログで、幸せにはち切れんばかりの生(なま)の感情が表現された合格体験記を読んでは、幸せのお裾分けをしてもらったり、指導の参考にさせてもらったりする。それは指導する先生の指導や力量、生徒愛なども垣間見られる貴重な機会でもある。

一方、これからは(もうすでに)塾のチラシで、HPで、そして教室の入口で、合格の「実績」が大きく掲げられることになる。翻ってこちらには、なんとも重苦しい、場合によっては腹立たしい気持ちが湧いてくることが多いのも事実だ。

「合格」は最も端的な塾の顔でもある。―この塾はどの高校(中学・大学)に、何名合格したのか。上位校に合格する生徒が中心なのか、それとも中堅以下が主体なのか。都立と私立のどちらに「強い」のか。―「合格」は塾の指導力、その指導が得意とする対象などを如実に物語る。だから、新規入塾を考えている家庭や生徒はその「合格」をためつすがめつ比較し、通う塾を決めたりもする。

合格した学校の名前や数が塾の生徒数を左右するとなれば、塾が合格の「実績」を大々的に掲げるのは必然だ。分かりやすい「宣伝」として合格は強い効力を発揮するわけだから、とりわけ上位校への合格や合格率は強調して掲げられることとなる。ちょっとはしたないと言えるくらい過剰なものも含めて。

こんなコピーがある。―「全勝」「合格率100%」―毎年「全勝」なら、毎年「合格率100%」なら書いてもいいと思う(そんなことは特殊な進路指導でもしない限りありえない)が、仮に今年は全員合格でも、過年度は涙を飲んだ生徒もいるはずだ。都立は全員合格でも、私立(もちろん第1志望)が不合格だった生徒がいるかもしれない。宣伝商材として「全員合格」は効果を持つのかもしれないが、私には不合格だった生徒のことを慮れない無配慮なコピーにしか見えない。生徒や保護者への配慮をもった塾長や指導者は、仮に当該年度が「全勝」でも、決してそんな書き方はしないものだ。

「大成功!」―誰にとっての「大成功」なのだろう。「大」と枕が付くからには、合格率や合格した高校のレベルが高いこと(それも複数)を指すに違いない。そしてそれはもちろん、塾にとっての成功だ。塾が、生徒たち一人ひとりの努力の過程とその結晶を、悩みに悩み抜いた結果としての人生の岐路を、「成功」などと表現してよいのだろうか。そしてまた、努力及ばず不合格だった生徒はその「成功」には含まれていない。

「成功」という表現の裏には「不成功(場合によっては「失敗」)」が確実に存在する。今年は成功だったが、年によっては「不成功」「失敗」ととらえるような「実績」もあるわけだ。受験の結果を「成功」「勝利」などとする言葉づかいには生徒指導と受験に対する本音、本質が宿っている。

合格は生徒たち一人ひとりのものだ。そこに敬意や尊重を欠いてはならない。我々は生徒たちの人生の一時の随伴者に過ぎないのだ。生徒たちの合格を我々の都合という手垢にまみれさせてはならないと、今改めて強く思う。

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