繰り返し書いていることだが、小中学生の勉強でもっとも重要なのは言葉の力だ。「読んで理解し表現する」が言葉の力だとすれば、それと学力とはかなりの相関がある。ざっくり言えば、言葉の力がある生徒はやればやっただけ成績は伸びる。こういう生徒の学力を伸ばすのに塾の役割はそれほど重要でない。きっかけを与えてあげれば(きっかけも大切な塾の役割だけど)その生徒の持つ力でどんどん伸びていく。一方で言葉の力が弱い生徒は、やってもやっても伸びないという困難に陥ることがままある。頑張っているのに、勉強時間を増やしているのに、せいぜい現状維持(勉強は学年が上がるにつれてレベルが上がるので、現状維持できるだけでも立派ではあるのだが)。なかなか飛躍とはならない。こういう生徒は、ほぼ例外なく「言葉の力」が未熟だ。
言葉の力が未熟とはどういう状態なのかというと、端的な例で言えば、「教科書に書いてある内容がなかなか頭に入らない」が挙げられる。言葉(語彙)が難しい。表現が普段使わないものだから分かりづらい。そもそも書いてある内容が、なんだか難しくてよく分からない-英語は別として、また数学は数字という別言語なので除外すれば、国語、社会、理科の教科書を読んで、このような状況に陥る生徒は相当多い。
以前あった質問。中学社会の歴史ワーク、幕末~明治維新の単元(中2~中3はじめの学習範囲)でこんな問題があった。「勝海舟との会談により、( ① )は江戸城を明け渡させました」。質問に来た生徒は、「先生、この問題、どういうことですか」「問題の意味が分からない」と言う。「意味が分からない」の理由はすぐピンときたので、問題文を音読させてみた。すると果たして、「明け渡させた」がきちんと読めない。「明け…渡し…渡さ…した」とたどたどしい。私が一緒に補助しながら読んでやっと正しく読めた。そうしてやっと「なんとなく分かりました」。「明け渡す」の意味の説明、「させる、させた」の別の用例を出しながら解説し、なんとか腑に落ちたという流れだった。
「明け渡す」という中学生の日常語彙にない言葉、使役の助動詞とその組み合わせ。生徒が分からないと言う理由は明らかだが、理屈ではなく、こういう表現がスッと腑に落ちるかどうかが、言葉の力のあるなしの端的な表れだ。そしてこれは、国語辞典を引くとか、分からないものは質問をするとかで強化するのは難しい(国語辞典を引くという行為の成果は、それによって語彙を豊かにすることにはなく、言語意識の鋭敏化や概念を言語的に説明する転換意識の醸成にあると考えている)。言葉の力の根底は、日常の言語体験が支えている。ここに「言葉の力」の難しさがある。
別の生徒の英語の質問。教科書に“people outside Japan”とあり、学校の先生が作った訳が「外国人」。指導する側としては、こういう表現は英語と日本語の橋渡しをする好例と言えるが、質問に来た生徒は「なぜ『日本の外の人々』じゃだめなんですか?」と。先生の作った訳は配布プリントに書かれているもので、授業での解説はなかったという。残念ながら、今の英語教科書は内容がてんこ盛りで、学校の授業で解釈と和訳を丁寧にやる時間はないのが実情だ。そこで先生は致し方なく訳を書いたプリントを配っているわけだが、質問をした生徒は「日本の外の人々→外国人」という変換が、自力ではできなかった。
現在の英語は内容がてんこ盛りと書いたが、こんな問題もある。現在の英語教科書はよりコミュニケイティブになっていて、口語的表現も以前に比べて多く取り入れられている。それはそれでよいことだが、中1生の学校英語ワーク、Unit1に次のような英作文がある。
・「広瀬ユミだよ。」 ・「先生はアメリカ出身ですか。」 ・「おなかへったの?」
中1のUnit1(NEW HORIZON)では”I am ~ You are ~“ ”I + 一般動詞、形容詞” ”I can~” を扱うことになっている。つまり、主語「私は~」「あなたは」の表現を学ぶわけだ。だから上記の文は、
・「広瀬ユミだよ→(自己紹介だな、「私は」だな)→私は広瀬ユミです」
・「先生はアメリカ出身ですか→(先生は会話相手なので「あなた」だな)→あなたはアメリカ出身ですか」
・「おなかへったの?→(相手に聞いているから「あなた」だな)→あなたはおなかが減りましたか?」
こういう風にして、現在勉強している内容との参照(参照は勉強においては必須だが、ものすごく高度な作業でもある)による変換をしながらやる必要がある。分かる生徒にはどうってことない参照と変換だが、分からない生徒、つまり言葉の力が弱い生徒にとっては非常にハードルが高い。事実この問題は、私が言葉の力が弱いと感じている生徒はことごとくできていなかった。
言葉の力が弱い生徒にとって、今は「私は~」「あなたは~」の文を勉強しているのだから、その表現に即して思考を進めるが、上の3つの文にはどこにも「私は」「あなたは」がない。加えて、「~だよ」なんて表現は習っていないし、「先生は」だからteacherで始めたら間違いだし、「へったの?」の「~の?」はどのように作ればいいのか…と、読解を用いた参照ができないために、即物的ならぬ即語的思考に陥ってしまう。もちろん、丁寧に解説をすれば理解できるのだが、学習内容はどんどん新しいものに進むわけで、こういう部分の解説に時間がかかれば、当然自身の勉強は遅れていってしまう。
こういう例はいくらでも挙げることができる。読む行為は原則どの教科にも存在しているわけだから、その学習の困難はこちらの想像を超える。教科書改訂が行われた昨年来、内容が濃くなり勉強しがいのあるものになった一方で、教科書が分からないと訴える生徒や教科書内容の質問が以前より増えている。「勉強しがい」「教えがい」は生徒達の学力向上につながる大事な要件ではあるが、その構成要素が「言葉の力」を大きく超えてしまうとき、学力向上よりも学習負担になる場合があり、非常に悩ましいところだ。
言葉の力が弱い生徒に対しては、常に言葉の力の向上を意識した関わりをするしかない。私は教室で次のような関わりを心がけている。-断片的な言葉でのやり取りをしない。こちらが話す内容(授業時の解説)は簡潔だが極力砕かない、きちっとした言葉で構成されたものを意識する。質問はきちんとしたセンテンスを言葉にさせる。おかしな言い回しは言い直させる。コミュニケーションをより積極的にとって、学校のこと、部活のことなどをまとまりのある表現で話させる、などなど。塾での関わりは生徒達の生活のごく一部だが、そこで「正しい」言葉の力への道筋をつけたい。そしてこうした言葉での関わり意識は、保護者の方にもお願いしていることがらでもある。-ご家庭で会話を多くして下さい、まとまりのある内容を、なるべく長めの文章を言葉にさせてください。要求が何のことか分かっても、言葉の断片での言い方は直させてください、お子さんが言葉にする前に先回りしないようにしてください、などなど。言葉の力は日常で向上させるのがその根底にあり、そこから言葉への意識もこだわりも生まれてくるはずだからだ。